短編集 恋の卵

透き通る青 1

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 時々、通勤時間に見かける彼女は、さわやかな挨拶を残して通り過ぎる。
 誰もが無言で重苦しい空気を背負ったまま足早に歩いていたから、彼女の醸し出す空気は透き通っていた。
 軽やかな足取りとその背中を、僕はいつの間にか覚えてしまった。
 駅の構内を掃除している人や通りすがりの店舗の売り子にも、当たり前のように笑顔で声をかけていた。
 会話を交わすでもなくサラリとすぎる姿は、見ているだけで心が温もる。
 ただ、彼女のさわやかな挨拶は、僕のような通勤途中の会社員には向けられない。
 それが少しだけ残念だった。
 それでも彼女の背中を見送るのは、僕のささやかな楽しみだった。

 同じ駅で降りる彼女が、僕の会社とさほど離れていない場所に努めているのを知ったのは、ほんの偶然だった。
 ランチタイムに常用している喫茶店に、偶然、制服姿の彼女が入ってきたのだ。
 制服のまま気軽に歩ける距離に勤めているのだとわかって、胸がほのかにときめいた。
 背中を見つめるだけだった彼女が、目の前でメニュー票を広げて注文している。
 それは不思議な光景だった。

 この喫茶店は路地の少し奥まったところにある古い珈琲店なので、ランチがあることを知っている人は少ない。
 隠れ家的雰囲気も、やわらかにジャズが流れていることも、僕のお気に入りだった。
 同じ空間で、同じ時間を過ごせるなんて。
 もちろん声なんてかけない。
 彼女は僕のことなんて知らないから、声をかけたらただの不審者になるのもわかっていた。

 そのとき、後から入ってきた客が、彼女の正面に座った。
 おまたせ、とその男が親しげに話しかけると、彼女はパッと花がほころぶような笑顔になった。
 洒落た雰囲気の会社員で、スーツを着こなす感じが爽やかだった。
 僕と同じメーカーのスーツを着ても、きっと彼はオーダーメイドのような着こなしをするだろう。
 小さな幸運にふくらんでいた気持ちが、萎れていくのを感じた。 
 頬を染めながら恥じらうように笑う彼女に、そうだよな、とぼんやりと思う。
 毎朝、思わず目で追ってしまうような女性なのだ。
 彼氏がいて残念というよりも、当然だと思った。
 好きとか惚れていると言うよりも、憧れだったと自分に言い聞かせる。
 ところどころ漏れて聞こえてくる会話で、二人が付き合い始めなのだと理解したけれど、花のように笑う彼女を見られただけで良しとしよう。

 その後、彼女とその彼氏は僕のお気に入りの喫茶店に、時々現れるようになった。
 どうやら付き合っていることを、二人は内証にしているらしい。
 秘密の関係を続けるのに、隠れ家めいたこの喫茶店は都合がいいのだろう。
 大きな観葉植物の影の席が定番の僕の席で、時々二人の様子を盗み見る。
 彼女の視線はいつも、彼氏だけに真っ直ぐに向けられていた。
くすぐるような笑い声や青空みたいに明るい笑顔がまぶしい。
 朝の通勤時間も、昼のランチタイムも、彼女は僕に気付いたりしない。
 かすかな背徳感は感じたけれど、幸せそうな彼女を見つめることは小さな喜びだった。

 彼女たちがこの喫茶店に時々やってくるようになって、半年ばかり経っていた。
「泊りがけで旅行なんて嬉しいわ。とても楽しみなの」
 そんな華やいだ声に、思わず手が止まった。
 親密な関係になっているのはうすうす気づいていたけれど、思わず飲みかけの珈琲を吹き出しそうになる。
 泊りがけの旅行という単語から夜の妄想が広がってしまった。
 青空みたいに爽やかな彼女も、あられもない姿をさらすのだろう。
 とはいえ、昼の日中から想像するには刺激が強すぎるから、慌てふためいて動揺が隠せない。

 たまたま一緒に来ていた同期が、僕の挙動不審に気付いて不思議そうな顔になる。
 どうした? と聞かれても、なんでもないと答えるのが一生懸命だった。
 変な奴だなぁと言いながら、僕の後ろを見た同期は、おや? とつぶやいた。
「あれ? あの人、企画のコンペの時に会ったけど、お泊り旅行とか聞こえたよな? 娘と奥さんの写真を自慢してたのに……不倫かよ」
 え? と僕が驚いていたら、同期が立ちあがった。
 スタスタと彼氏に向かって歩み寄ると、にこやかに笑いかける。
「奇遇ですね、先日はどうも! やっぱり奥様とお子様がいらっしゃる人に、夏のファミリー向け企画では勝てませんでしたよ。次の催しコンペでは負けませんからね」
 では! と明るく言い放ち、アハハとわざとらしく笑いながら戻ってくる。
「商売敵だしな。次の企画は俺がもらう」
 ニヤリと同期は笑ったけれど、何を言えばいかわからなかった。
 僕は観葉植物の陰に隠れたまま、ポカーンとするばかりだ。

 そんなことよりと思って振り向くと、彼女の大きな瞳から一筋の涙がこぼれるところだった。
 泣きだすことなく涙を軽く指先でふいて、キッと彼氏をにらみつける。
「奥様ってどういうことですか……?」
 修羅場か? と思う間もなく、別れてくださいと彼女が言った。
「家族がいるなら、大切にしてください」
 ついさっきまでのふわふわと夢見る感じが消えて、冷たくて固い口調だった。

 それからいくつかの言葉を交わしたけれど、彼氏がなだめるように何か言うのを、彼女が冷たくかわしていた。
 そして、サヨナラと言って、毅然とした態度で出て行った。
 振り返りもしないその後ろ姿は、これからの関係をキッパリと拒絶していた。

 彼氏のほうは肩をすくめて、あ~あともらして、残念そうに見送るだけだった。
 未練も何もないのかポケットから連絡ツールをとりだし、淡々と連絡先を削除している。
 チラチラとのぞき見る僕が拍子抜けするぐらい、彼には変化がなかった。
 ボールペンをなくしたとか、10円玉をなくしたとか、彼女がいなくなるのもその程度の感慨らしい。
 その無神経さにイラリとしたけれど、僕が怒るのも筋違いだから口を引き結ぶ。
 支払いの前に同期を軽く睨んだけれど、なにもなかったように彼氏は出ていった。

 終焉にしてはあっさりしている。
 不倫だから執着するよりいいのだろうけど、やっぱり理不尽だと僕が思っていたら、同期がメモ帳にサラサラと何か書いて僕の手に握らせる。
「今週末って言ってたから、キャンセルするかどうかは五分五分だな。まぁ、おまえに運があればがんばれ」
 じゃぁな! と明るく言って、先に喫茶店から出て行った。
 その背中をぼんやりと見送って、手の中の紙を見つめる。
 名前を知ってはいるけれど行ったことのない地名とホテルの名前が書いてあった。
 もしかして、彼女がさっきまで広げていた手帳やパンフレットから、旅行先を盗み見たのだろうか?
 抜け目のない奴だ。
 企画営業の出先で毎日のように鍛えてるんだと、次に合えば自慢げに笑うだろう。
 清々した表情まで見えてきそうで、僕も思わず笑ってしまった。
「それにしても、汚い字だなぁ……」

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