短編集 恋の卵

あなたにピアノソナタを

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「あの時の気まずい沈黙、覚えてる?」
 アイザックの不意打ちに、私は戸惑った。
 留学先に届いた手紙で、数年ぶりに故郷に帰って来たばかりなのだ。
 他にいうべき言葉は色々とあるはずなのに。
 荷物を片づける間もなく強引に腕をつかまれ、バルコニーに連れ出されるとは思わなかった。
 それに、彼が示した気まずい沈黙に心当たりはあったけれど、それは今ここで話す内容ではなかった。
 反射的にはじきかけた言葉を飲みこんで、足元に視線を落とす。

「あなたが婚約するって聞いたわ」
「求婚はこれからだけどね」

 ほのかな自嘲まじりの声に、チクリと胸が痛んだ。
 アイザックと私ははとこの関係で、親同士も交流があったからよく顔を合わせていた。
 あまり社交的ではない私だけど、二歳年上のアイザックになぜかなついて、その背中をヒナのように追いかけていた。
 もちろんそれは子供のころだけで、思春期に入ると顔を合わせても話さなくなってしまった。
 私は本を読んだりピアノを弾いたり、家の中で過ごすことを好んだ。
 活動的なアイザックは剣術の稽古をしたり乗馬に出かけたり、少年らしかった。
 そう、おひさまの下でいつもキラキラとまぶしかったから、私からは声をかけづらくなったのだ。

 それに青い瞳と目があっただけで、恥ずかしくてしかたなかった。
 心臓がトクトクと速度を増して、なんだか落ち着かない。
 たぶん、初恋だったのだと思う。

 親同士の交流は続いていたのでお互いの家を訪ねることもあったし、別荘に行くこともあった。
 その日は別荘でお互いの家族と過ごしていて、私は本を読みアイザックは乗馬に出かけていた。
 窓からの風が気持ちよくて、居間のソファーで私はついうとうとと寝てしまう。
 流れ込んでくる花の香りも甘くて、どれくらい寝たかはわからない。

 ふっと動いた空気に目を開けたら、目の前にアイザックの顔があった。
 少し驚いた表情を浮かべたけれど、そのまま互いの距離が縮み、彼の熱が唇に落ちてくる。
 あ、まつ毛が長い……まだ半分夢の中にいるみたいで、私は目を閉じることも忘れていた。
 触れ合った唇と唇が離れるころ、やっとキスしていたことに気がついた。

 はじめてだったのに、唐突すぎて涙があふれた。
 嫌じゃなかった。でも気持ちがついていかない。
 アイザックの震える指先が私の涙をそっとふいたけれど、戸惑うように離れていった。
 ただ気まずい沈黙だけが、冷たく二人の間に落ちる。

 凍りついた空気の中。
 私から離れたアイザックが部屋を出て行くのを見て、これが夢ならいいのにと思う。
 どうして? と問いかけることもできなかった。
 待って、と呼びとめることもできなかった。
 それが一緒に過ごした最後の時間になった。

 逃げるように私は、外国に留学した。
 それから数年。ピアノを習っていたけれど、あっという間だった。
 そろそろ帰国を促されていたけれど、楽団から声もかかっていたので渋っていた。
 そこへアイザックの婚約パーティーがあると手紙が届き、会場でピアノを弾くために呼び戻されたのに、今さら昔の話を持ち出されても困る。
 ましてや、私たちは付き合ってもいなかった。

 キスのひとつぐらいで、と言い返せたらよかったのに。
 私の目から、一粒の涙が落ちた。
 戸惑うように伸びてきた指先が、私の頬にふれる。
 そっと優しく羽毛をなでるような軽さで動き、そのまま唇まで滑り落ちてくる。
 形を確かめるよう動く指先が熱くて、そこから溶けてしまいそうだった。
 不意に、ささやくようにいわれた。

「あの日も君を傷つける気はなかった」

 キスのことだと、すぐにわかった。
 これから婚約する人の言葉とは思えない。
 戸惑う間もなく、左手をとられた。
「好きだ」という言葉とともに、手の甲に口づけが落ちてくる。
「騙す気はなかった、こうでも言わないと帰ってこないから」
 吐息まじりにささやかれ、頭の芯が痺れてしまう。

「僕と一緒に生きてほしい」

 声が詰まって、涙がこぼれた。
 言葉が出ないけれど、何度もうなずく。
 キスからやり直そうと言われて、そっと目を閉じる。
 やわらかな風が、私たちを包み込む。

 叶わない恋を葬るつもりで帰国してきたけれど。
 明日はあなたと私のために、祝福のピアノソナタを弾くわ。

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「あの時の気まずい沈黙、覚えてる?」

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