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短編集 恋の卵

 きっと「好き」の二文字になる。

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 後ろから抱きしめられた。
 残業が長引きそうなので、気分転換にコーヒーを淹れに来ただけなのに。
 いきなりこんなことをするのは真田君しかいない。
 離して、と言う前に、まとめている髪に顔を埋められた。
 首筋に触れた吐息にドキンとして、思わず顔を伏せてしまう。
 どうしていつも一人きりで油断している時に限って、この人は現れるのだろう?
 ここは会社の給湯室だと拒絶する前に、ポツンと声が降ってくる。

「ごめんね、失敗した」

 悔しげにかすれた声は、やっぱり真田君だった。
 それがどういう意味かすぐには思いつかず、振り返ろうとしたけれど動けなかった。
 私に回している真田君の腕に力がこもり、身じろぎできず痛いぐらいだ。
 せめて振り返りたかったけれど、ごめん、と続くから思わず抵抗をやめてしまった。

「約束したのに、契約を取れなかった」
 
 その言葉に、なるほど、と思った。
 契約が取れたら付き合えって、一方的に宣言していたっけ。
 失敗の言葉の意味に、ほっとする私と、少し残念がる私がいた。
 そう、どっちつかずの不思議な気持ちだった。
 真田君の言葉を信じるつもりでいたけれど、心のどこかで不振が消せなくて、からかわれているだけだって気がしていた。
 だから、失敗したって聞いて、妙に安心してしまう。

「また次があるよ」

 ポンポン、と身体に回された真田君の腕を軽く叩く。
 だから離して、と続けるつもりだったけれど、さらに強く抱きしめられた。
「俺のこと、信じてないだろ?」
 不意打ちの言葉に、思わずビクリとしてしまう。
 否定するまでもなく、態度に出てしまって気まずい。

「……信じるも信じないもないと思う。それに真田君は、受け付けの子たちから誘われているでしょう?」
 若くてかわいらしい受付嬢たちが、ロッカーで週末に真田君を食事に誘うと騒いでいたのを思い出す。
 自分の疲れた顔を映した鏡を思わず伏せて更衣室から逃げたけれど、ああいうキラキラした娘たちは真田君と並んで相応しい気がした。
 なんだかいたたまれなくて、ため息しか出てこない。
 確かに付き合ってとは言われたけど私はまだ付き合ってもないし、真田君にはもっと似合いの人がいると思う気持ちが消せないでいる。
 自分のふがいなさに堕ち込みかけていたら、クスリと真田君が笑った。

「なに? 妬いてくれるの?」
 違う、と思わずはじいたけれど、自信のないかすれた声になってしまった。
 これではきっと否定する意味がない。
 妬いてるわけではなくて、自分が相応しくないと思っているだけなのだけど。
 その差を上手く伝えられそうになかった。

「いいかげん、離して」

 こんな落ち着かない気分はごめんだ。
 そう思って抵抗しようと身じろぎしたけれど、真田君はちっとも腕を緩めてくれない。
 後ろから抱きしめられたままなので、表情ひとつ見えないから彼が何を想っているかも読み取れなかった。

 でも。
 ぴったりと隙間なくくっついた真田君の鼓動が、スーツ越しでも怖いぐらい伝わってくる。
 鼓動は嘘をつけないって、誰かがいっていた。
 壊れそうなほど早くて、つられて私の鼓動まで駆け足になる。

「こうしてるとさ、俺の気持ち、感じない?」

 私の心を読んだようなセリフに、一気に血がのぼって、カァッと顔が赤くなるのがわかった。
 どこか切ない声音で、そんなこと言わないで。
 腕も、手も、鼓動も、真田君のすべてが熱くて壊れそうだ。
 私の心臓も、同じ速度で勝手に叫んでいる。

「慰めてよ、今夜。仕事が終わるの、待ってる」

 甘い声でそうささやいて、真田君は離れた。
 一気にひんやりした背中に、足が震える。
 嫌だって、ムリだって言わなければ。
 だけど、振り返ると真田君はいなかった。

 現れるのも突然だけど、消えるのも突然。
 慰めてって、どういう意味?

 深読みしそうな自分が嫌い。
 だけど真田君を心からは拒絶できない。
 抱きしめられるのも、甘い言葉も、私の身体は嫌がらなくて、真田君を受け入れている。
 ただ、素直に認めてしまうと、壊れるのが怖くなる。

 臆病だって笑われても今ぐらいの距離感がいいのに、きっとそれは無理な相談。
「私はそんなに強くないのよ」って言ったら、きっと「知ってる」って言われそうで腹立たしい。
 真田君は私のことをよく見ているから。
 それが悔しくて、少し嬉しいなんて、なんてもどかしいのだろう。

 この気持ちに言葉を当てはめるとしたら。
 きっと「好き」の二文字になる。


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