短編集 恋の卵

「くちづけ」

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 どうしてこんなところで会うんだろう?

 エレベーターの扉が開き、中へ入ってきた人物に思考が停止した。
 思わぬ残業でやっと帰れると気を抜いていたのに、私は身をこわばらせる。
 
 克彦さん。
 学生時代から半年前まで付き合っていた人。
 そして別れてくださいと、私からお願いした相手だ。

 ある日突然、彼の母と名乗る人に呼び出され、ポンと札束を手切れ金だと渡された。
 帯封のついたトランクいっぱいの現金に、思い切り腰が引けたのだ。
 SPに囲まれた彼の母も、ギッシリ詰まった本物の現金も怖かった。
 裕福な家庭の育ちだとは聞いていたけれど、誰もが知っている大きな財団会長の御子息で、取引先との婚約が決まったときいて私は動揺するばかりだ。

 彼一人の問題ではなく、社員の未来までかかっているなんて、そんなの私がどうこうできる問題じゃない。
 別れます、と反射的に答えてしまった。
 お金も何もいらないと突き返したけれど、私の父親や兄弟の勤め先は財団の子会社だということを忘れるなと念を押された。
 口約束は信用できないと県外の支社に就職を斡旋された私は、逃げるようにここへと引っ越してきたのだ。
 
 気まずい。
 でも、降りようにも扉の前に克彦さんがいる。
 押しのけて外へと飛び出す勇気は出なかった。

「元気か?」
 不意に聞かれて、その背中を見た。
 付き合っていた時と同じ、穏やかな口調だった。
 私が戸惑っているうちに、克彦さんは八階を押した。
 ゆっくりと扉が閉まり、私たちは狭い空間に二人きりになった。
 
「元気だったか?」
 克彦さんは移動する階の数字を見ていた。
「元気よ」 
 なんとか絞り出すようにして答える。

 逃げ出したい気持ちを裏切って、目が離せない。
 別れた時と同じで、少し泣きたくなるぐらい綺麗な後ろ姿だった。
 その肩も、その背中も、変わっていない。

 どうかこのまま振り返らないでほしい。
 顔を見たら押し殺したはずの気持ちまであふれてきそうだ。

 ガクン、と不意にエレベーターが大きく揺れる。
 え? と思う間もなくチカチカと電灯が点滅し、そして消えた。
 エレベーターが完全に動きを停止し、訪れた暗闇に私は動揺してしまう。
 幸いなことに白が基調の壁がぼんやりと光を放ち、うっすらと周りが見える。
 故障? と慌てる間もなく、克彦さんが動いた。
 私の腕をとってひきよせる。
 よろめいて倒れる前に、ドン、と激しい勢いで壁に身体を押し付けられた。

「なぜ、俺に相談しなかった?」

 耳元でささやかれ、私は硬直する。
 懐かしいコロンの香りに包まれ、頭がクラクラした。
 フッと耳に息がかかる。

「お袋の仕組んだ婚約は断った」
 え? と驚きに顔をあげると、鼻先が触れ合いそうなほど近くに克彦さんの顔があった。
 その射るようなまなざしに、身動きひとつとれなくなってしまう。 
「理由も何もなく、別れてください、だけで消えるなんてな。納得できるわけがないだろう? 冗談じゃないぞ、どこまで俺を信用してないんだ?」
 懐かしい彼の香りも、息遣いも、すべてが私を攻め立てる。

「……ごめんなさい……」
 やっとの思いで絞り出したけど、触れ合った体温が熱くて、ガクガクと膝が震えだす。

 これは彼の母との契約違反だ。
 決まっていた婚約を破棄したなんて……ああでも克彦さんらしい。
 こうと決めたらとことん自分の意思で追及していく。
 それに比べて私は……思わず彼から目をそらすしかない。
 彼の母親の冷たい眼差しに負け、想像以上に大きな物を背負っている彼を支えるどころか、たった一度のコンタクトだけで怖くなって、何も知らない克彦さんからも逃げてしまった。
 
「英理子、俺を見ろ」

 凍りついたまま動けないでいたら、顎をつかまれた。
 グイと顔を上向かされ、克彦さんは私をまっすぐに見る。
 怒った顔でいても、私の知っている克彦さんのままだった。
 克彦さん、と呼びかける前に彼の息が頬をかすめ、そのまま唇におちてくる。
 顔をそむけようとしたけれど、彼の手がそれを阻んだ。

 思わず目を閉じる。
 それは口づけを受け入れた証明みたいに見えただろう。
 やわらかに唇が重ねられ、そのまま彼の熱が入りこんできた。
 頭の片隅でこのままではいけないとぼんやり感じていたけれど、むさぼるような口づけに頭の芯がとけそうだった。
 
 父や兄弟の顔がチラリと脳裏をかすめたけれど、そんな不安を見透かしたように克彦さんは口づけを深める。
 息ができない。

 少しもがいて、やっと離れたと思ったら、伸びてきた手がタイトスカートの裾からスルリと入り込んでくる。
 こんなところで何を始めるのかと、さすがに慌ててしまった。
 ちょっと待って、とその手を止めようとしたら、英理子と名前を呼ばれた。

「とうぶん動かないし、残業の奴はほとんどいない」
 
 いいだろ? と言われても戸惑うし困る。
 そんなの、いい訳がない。
 エレベーターは故障していたって防犯カメラは作動している。
 白い壁がぼんやりと光っているから、誰が何をしているかはわかるのだ。
 拒否しようとして顔をあげたけど、目が合うと気持ちが揺れた。
 グイグイ迫っているくせに、迷子みたいに不安そうな表情をしていた。
 その表情が懐かしくて、胸がキュッと痛くなる。
 困ったときに左まゆを軽く上げるところも、まっすぐにちょっと威張ったように胸を張るところも、上手く事が運んだ時は少年みたいに笑うところも、ぜんぶぜんぶ好きだった。
 それは、今でも変わらない。

「英理子」
 耳元で名前を呼ばれて、背筋がゾクゾクした。
 太腿をなでた手がそのまま奥へと進み、新たな熱を生みだそうとする。
 俺を信じろ、とささやかれ、私はそっとうなずいた。
 どんなに未来が怖くても、私には克彦さんしかいないのだ。
 名前を呼んでその頬を手で触れてみると、克彦さんは少年みたいに笑う。

「俺から逃げられると思うなよ」

 ふしだらと言われてもかまわない。
 克彦さんの首にそっと腕を回す。

 扇情的な口づけを、防犯カメラは無機質に記録していた。


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