短編集 ふんわりと

美味しい関係

 ←月が見守る夜に 
 あの人とつまらないことでケンカをした。
 原因はポテトサラダだ。リンゴを入れるか、入れないか。たったそれだけなのに。
 ケンカに発展するとは思ってもみなかった。
 でも、問題の根本は別にあるのだけれど。
 発端は、あの人の転勤だった。
 七月の終りに「突然だけど九月に県外に転勤が決まったんだ」ととってつけたような理由でプロポーズされた。あきれるような嬉しいような、表現しにくい気持ちになったけど、付き合いも三年目を迎えていたし、離れるのが嫌だったから、うんと私もうなずいた。
 そのままバタバタと慌ただしく準備して、転勤に合わせて忙しく結婚した。
 普通ならこれでハッピーエンド。
 これからはじまるのは、幸せな生活……のはずだったのに。
 なぜだろう?
 幸せいっぱいとは言い難い。
 もちろん不幸なんかではないのだけれど、何かがかみ合わない。
 荷物をほどいて、毎日の生活が軌道にのってくると、付き合っている頃には気付かなかった発見が色々ある。
 良いことも悪いことも両方あるけど、目につくのは悪いことだ。
 ここ最近のケンカの原因を思い返すと、ため息しか出ない。
 心の準備も不足していたし、自分以外の誰かと暮らすのって、本当に難しいと思う。
 本当に、取るに足りない小さなことが気にかかってしかたがない。気にする方がおかしいぐらい、小さな差異が原因になる。
 あの人の一挙一動が、小さな棘のようにチクチクと刺さるのだ。
 昨日の夜だって、本当に小さなことだった。
 サラダを作ろうと思って丸ごとジャガイモをゆでている時に、私がリンゴのウサギを作ったことが、あの人は気にいらなかったのだ。
「なんでそんなことするわけ? サラダに入れられないだろ?」
「え、それ、純粋に嫌いなの」
 私は個人的に、ポテトにまみれたリンゴが嫌いなのだ。シャクリとした爽やかなリンゴの食感にまとわりつく、マヨネーズで和えたポテトのねっとりした感じは、どうにも受け付けない。
 リンゴはリンゴとして、サラダはサラダで食べたい。
 でも、あの人はポテトが主体だと胸やけがするから、リンゴの酸味が中和していい感じになるのだと自論を展開して譲らなかった。
 別にどっちでもいい事だし、言い争いも嫌になって。
 あの人のリンゴをサラダ用に切って、自分好みに混ぜていいからねって出した。そうしたら、再び棘のある言葉が返ってきた。
「こっちは一日仕事してきたってのに、ホントに気が利かないよな。家で一日ゴロゴロしているだけなのに」
 ムッとした。確かに今の私は無職だ。
 引っ越したためしかたなく辞めただけで、私は持っている全てを手放した。仕事も、家族も、友達も、全部を手放したのに。
 親や友達にメールや電話はできるけど、気軽に出かける相手も見つけられず、一人になってしまった。会話をしようにも方言が違って、友達どころか知り合いすらできない。
 ハローワークも失業者ばかりがいっぱいで、仕事の登録数そのものが少ない。
 家事だって実家で母と一緒にやっていたから負担は少ないけど、一人で全部を手掛けるのは想像以上に手間取って疲れている。
 ひとりぼっちのまま誰にも相談できず、抱え込むしかないのに、それがゴロゴロ……?
「そこまで言うなら、自分一人で来ればよかったじゃない!」
 もう知るもんか。勝手にすればいいと言い置いて、私は寝室に逃げ込んで鍵をかけた。
 あの人はドンドン扉を叩いて「ゴメン」とか言っていたけど、私はすぐに顔を合わせる気分になれなかった。
 あの人の言葉の通りに、徹底的にゴロゴロすることに決めて、そのまま不貞寝した。
 朝起きると、あの人は仕事に出ていた。
 夕食を食べずに寝たから無性にお腹がすいてしまいう。音もなく、ガランとした台所のせいでよけいに飢えてしまった。
 あの人の使った食器は洗ってあった。
 ふと、テーブルの上に書き置きがあるのに気がついた。
「ごめん、言いすぎた」
 そう書いてあった。そっけないほど短くて、あきれると同時につい笑ってしまった。
 言い訳しないのが、あの人らしい。
 本当はサラダなんてどうでもよくて。
 きっと、仕事で行き詰っているとか、同僚の名前を覚えるだけで精いっぱいだとか、そういうことをわかってほしかったに違いない。
 そのぐらい私だってわかっている。
 でも、気持ちがささくれてしまうのだ。
 あの人も引越したばかりで、この土地に慣れていないのは知っている。仕事だって、内容やノウハウはわかっていても、まるきり違う場所なのだから初めましてと同じで、馴染むまで時間がかかるだろうし。
 家に帰っても私がいるから、独り暮らしの時とは違って自由になる時間や場所が減る。
 訳もなくイライラするのも仕方ないけど。
 だからって、私に当たらないでほしい。
 ついて来いって言ったのは、あの人なのだ。
 転勤と結婚で何もかも変ったのは、私だって同じ。私は属する会社も仕事もないから、ブラーンと宙ぶらりんのままなのが痛い。
 ゆらゆらと気持ちが揺れるばかり。
 話しても伝わらないけど手放したものは大きくて、なにもなくってうらやましいねってチクチクと言われたくない。
 私も大人げない調子でやさぐれていたところで、昨日のまま残っている鍋を見てしまった。
 蓋を開けると皮つきのジャガイモが、お鍋の底に冷たく沈んでいた。
 これ、どうしよう?
 しばらく悩んで、再び火にかけた。
 あたためないと、ジャガイモはうまくつぶれない。一晩水につかっていたので、ホクホク感は消えているかもしれないけれど、食べないままなんてかわいそうだ。
 さすがにサラダにする気になれなかった。
しばらく考え込んで、ふと思い出した。
 この前買った雑誌に、ジャガイモのパンが出ていた。部屋の隅に取り置きしたはずだ。
 探すとすぐにお目当ての雑誌が出てきた。
 チーズやレーズン、ニンジンやカボチャのパンの作り方ならすぐに忘れていただろうけど、ジャガイモのパンは印象に残っていた。
 レシピを確認して、簡単そうだったので嬉しくなった。我ながら単純だけど、イライラする時にパンを作るのって、かなり楽しい。
 思い切り叩きつけてやる、とほくそ笑む。
 ふっくらとしたビジュアルと、香ばしい香りを思い出し、なんだかウキウキしてきた。
 そういえば、ドライイーストは砂糖を食べて成長するんだっけ?
 イースト菌も人間も同じ。育つためには甘く優しい栄養が必要だと、誰かが言っていた。
 イースト菌が羨ましくなる。
 砂糖の甘さは率直で、言葉と違ってとてもわかりやすい。
 そんなことを思いながら粉類を混ぜ合わせ、潰したジャガイモと一緒にまとめた。
 ぬるま湯じゃなくて、ジャガイモのゆで汁を入れると書いてある。
 一晩浸かっていたから、ゆで汁にもジャガイモのエキスがよく出ているに違いない。
 溶かしバターとジャガイモのゆで汁を加えて、黒コショウも投入してこねあげていく。
 黒コショウを見て、またムカッとする。
 私はスパイス系が好きなのでマッシュポテトやサラダにも黒コショウやスパイスを使うけど、あの人は癖のある物が嫌いなのだ。
 スパイスは自分が食べる物だけにかけているのに、香りがきついと実に嫌な顔をされる。
 あの人に食べろなんて言ってないし、絶対に言うつもりもない。
 だけどあの人は「ありえない」なんてボソッと言う。
 私が食べているのを見るのも嫌って、かなり重症。
 愛情が消える訳じゃないけど、どうでもいい人じゃないから、その言葉の棘を大きく感じてしまう。きっと本当に言いたいことは、違うはずだけど、わざわざ突っかかってくる。
 わかってる。あの人の甘えを、サラリと聞き流せない私も重傷。
 結婚前は、そんなこと言われなかったから。
 やっぱり腹が立ってきて、パン生地をこねる手にも力が入る。
 思い切り私の怒りを叩きつけても、パン生地は偉大だ。イライラも腹立ちもそのまま受け止めて、どこまでも丸く大きく育つのだ。
 パンって不思議。安らいだ日よりも、苛立つ日においしくなる。
 感情すべてを叩きつけた今日のパンは、見事なほどふっくらと焼き上がるに違いない。
 出来上がりを想像すると嬉しくなる。
 発酵させる待ち時間も、実は好きだ。
 ゆっくりゆっくり大きくなる姿はかわいい。
 そっとオーブンレンジをのぞくと、ジャガイモのパンなんて初めてだけど二次発酵もうまくいったみたいだ。あとは二百度に温めたオーブンで、二十五分間焼くだけ。
 プニプニした生地をセットして、焼き上がりを待ちながらチャイでも作ろうかと考える。
 私の大好きな香辛料。ズラリと小瓶が並んでいるだけで、幸福感が湧いてくる。
 カルダモン、シナモン、クローブ、ジンジャーをたっぷり入れて、スパイシーな紅茶を楽しむのは私だけの幸せ。
 あの人の大嫌いな物を、あの人のいないうちに満喫してやるのだと心に決めた。
 その時。
 ピンポンと玄関のチャイムが鳴った。
 誰だろう? こっちには知り合いもいないし、宅急便だろうか?
 いぶかしがりながらもインターフォンのモニターを見ると、女の人が立っていた。
 年齢は私と同じぐらいだけど、少女めいた可愛らしい顔立ちをしている。
「どなたですか?」
「隣の佐藤です」
 お隣さん? 引越のバタバタで記憶があいまいだけど、確かに挨拶をした気がする。
 アパートの全世帯を急いで回ったし、顔を合わせたのは一度だけだったからすぐに思い出せなかった。なんだろうと思いながら扉を開けると、彼女は恥かしげに頬を染めていた。
「あの、突然ですけど、食べてください!」
 勢いよく差し出されたのは、お皿にのった手作りのアップルパイだった。
 美味しそうだけど、丸々ワンホールはかなり大きい。目をパチパチさせる私に、彼女はボソボソと言った。
「私……お菓子を作るのが趣味なのに、うちの人はリンゴは生がいいって不満ばっかりだし、シナモンの匂いが嫌いだって言うから、家に置いておけなくて。この前あなたをスパイス売場で見かけたから、こういうのも平気かもしれないと思って」
 私はビックリしてしまった。自分と同じ悩みを持っている人が、目の前に突然現れた。
 私が言葉を失っているのを誤解したのか、すみませんと彼女は謝った。
「嫌がられるのがわかっているのに、趣味だからって続けるのも変ですよね。でも、どうしても作りたくなって。私も八月に引越してきたばかりで、他に贈るあてもないんです。嫌いなら嫌いだと言ってくだされば……」
 小さな声でモゴモゴと付け足すので、思わず微笑んでしまった。真っ赤になってうつむいている姿がとてもかわいらしい。
 私と似た状況にいる人がすぐ近くにいたなんて、本当に不思議な気分だ。
 アップルパイを差し出す彼女の手は、プルプルと震えている。
 私はそっとそのお皿を受け取った。
「ジャガイモ、好きですか?」
 ありがとうと言うつもりだったのに、そんな台詞が口から飛び出ていた。
 当然ながら、彼女はポカンとした。
 言いだした私自身もビックリしていた。
「えっと、今、パンを焼いてるんです」
 どこから説明していいかわからなくて付け足すと、彼女は首をかしげる。大きな目がハムスターみたいにクリクリしていた。
 喧嘩ばかりでやさぐれた私と違って、彼女からは初々しい新婚さんの匂いがする。
「パン、ですか?」
 不思議がる声もかわいいなぁと思ったら、腹が決まった。大きなアップルパイに、大きく育ったパンって、なんだかいい感じだし。
「ジャガイモのパンです」
 そう言って胸を張る。
 誘ってなんぼ、だよね。断られたら「残念だった」で終わらせればいいのだ。
「ジャガイモのパン?」
 キョトンとしているから、私はうなずいた。
「ええ、ジャガイモのパンです。もうすぐ焼き上がるけど、私しか食べないから一緒にどうですか?」
 真顔で言うと、彼女は更に驚いた顔になる。
「あなたしか食べないんですか?」
「ええ。私しか食べない、かわいそうな好物なんです。お暇なら一緒にどうですか?」
 彼女は自分のアップルパイを見つめながら「かわいそうな好物……」とポツンと呟いた。
 そして、ふふふと笑った。
「私、お邪魔してもいいですか?」
 アハハと笑って私はうなずいた。
「もちろん。私もパンと同じで、ひとりぼっちのかわいそうな奴ですから」
「私もアップルパイと同じで、ひとりぼっちでかわいそうなんです」
 私たちは顔を見合わせてひとしきり笑い合った。声をあげて笑うなんて、ひさしぶりだ。
 ひとしきり笑った後で、ごちそうになりますと言って、彼女は頭を下げた。
 初チャレンジだから味の保証はないですと言って、私も頭を下げた。
 顔をあげて目が合うと、微笑みが自然にわいた。側にいるだけで安らぐ人だと思う。
 どうぞ、と彼女を部屋に招き入れる。
 香ばしい焼き立てパンの香りも、新しいつながりを歓迎していた。
 ようこそ、甘い笑顔の可愛らしいお隣さん。
 ひとりとひとりが集まると、きっとふたり以上の楽しい時間になる。
 今日から私たちは美味しい関係。

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